top of page

About US

2Ae 5yAi3lyH は、車を通じて生活を楽しむ事を目的とした自動車会社です。
お客さまのご依頼の車両をイチから作ったり、修理したり、
車検したり、たまに改造したり、レストアしたり。車の楽しみを追求し過ぎて、レーシングカーを造ってしまったりもします(笑) 最近では、公道走行可能な電動スケートボードの開発に夢中になっていたり。

遊びと仕事の境界線が曖昧なまま突き進む私たちの成り立ちを少しだけご紹介。

2Ae 5yAi3lyHができるまで

1994~1999

代表取締役の藤井 充は1994年、東海大学工学部動力機械工学部に進学。

「大学行ったらエンジン開発者になるための勉強するんだ!」と猛烈な意欲を持って入学した藤井でしたが、大学はどうもそういう場所では無かったみたいで、一般入試で足切りされているハズなのに一般教養という、もう一度数学や国語やらを学び直す謎の授業があったりして「なんじゃソレ?大学、おもんないわ。」と嫌になって、クルマの運転に没頭する生活にシフトチェンジしてしまいました。

当時、5万円~10万円で買えたAE86を13台乗り替えて、夜な夜なヤビツ峠とか箱根とかを走り回っていました。

​おかげで、運転はまぁまぁ上手になってきて、「プロレーサーになりたい!」と間違った方向にアクセル全開になってしまったハタチ前後でした。

たっくんとツインドリ.jpg

​2001

​「なんぴとたりとも俺の前は走らせねぇ!」とレースデビューしましたが現実は厳しくて、私よりも速くて賢くて上手くてお金もあるドライバーはゴマンといて、特に何の爪痕も残せないまま、借金だけ残して現役引退となりました。

しかし、この必死に走っていた頃に体験した、セッティングが決まったフォーミュラカーの持つ人馬一体の感覚が忘れられなくて、その後のクルマ造りの動機になっていきました。

グリッド上で_0001.jpg

2Ae 5yAi3lyHができてから

​2006

​レースを辞めて大人しくサラリーマンしていたのもつかの間、

「あの感覚をもう一度、自分の手で作ったクルマで感じたい。」

と謎の衝動を抑えきれず、クルマ造りの道へ。

2年ほど、鈴鹿市内の自動車板金修理工場で修行して自動車修理の基礎を学び、藤井が30歳になった2006年に2Ae 5yAi3lyHは創業しました。

DSCF0152.jpg

​2007

​開業してから数年は、地元ディーラーの板金塗装の下請けとしてお仕事いただいて真面目に仕事していたのですが、少し軌道に乗ってくると、いよいよ「やりたい事をやるのだ!」と大きく軌道を外れはじめます。

始めは、学生時代からの友人の所有するAE86をエンジン改造したり、ボディ補強したり、全塗装したり、チューニング屋さんのような事に取り組んでいました。

DSCF0039.jpg

​2008

​この頃から、少しずつリミッターが外れてきます。

AE86のチューニングを進めて行くと、コーナー中盤から後半でトラクションの掛かりが悪くて、どうしても滑る。「じゃあ。後ろにエンジン載せちゃえば良いんじゃね?」という安易な発想で、AE86のフレームを半分にカットして、後ろ半分のフレームを新規製作しました。

結果としてこのMR86は、おおよそ期待した通りの性能を発揮してくれて、速く走るならミッドシップだね、という普遍的かつ古典的な事実を、さも新しく発見したかのように学び取ることができました。

​教科書から学び取れないタイプの様です。

とりあえず作ってみる、という精神はこの頃から生まれました。

DSCF0174.jpg

​2010

​MR86の成果で調子に乗った藤井は、「市販車改造じゃなくて、イチからクルマを造りたい。」という危険思想に憑りつかれます。この頃、世間はリーマンショックの不景気の真っただ中で、レース業界には冷たい風が吹いていたし、自分の稼業がその先どうなるのか見通しも無く、それでも「造りたい」という衝動に駆られて、オリジナルマシンM01の開発に着手します。

​もちろん、クライアントがいる訳じゃありませんから、全部自腹です。

​もともと大して蓄えがある訳じゃありませんでしたから、収入は途絶え、製作費として出費だけが垂れ流れていくという数か月が恐怖でしたが、止められませんでした。

DSCF0071.jpg

やっているウチに仲間が増えてきて、夜な夜な大勢で車両製作を進めていました。

当時は必死で取り組んでいて、楽しむ余裕は無かったと記憶していますが、今となって思い出してみると良い思い出です。​下の写真は、M01のエンジンに初めて火が入って安堵した瞬間。

DSCF0106.jpg

完成前の数日は、徹夜続きでした。

やっとの事で完成したM01は、意外にもちゃんと走ってくれて、素性の良さに感動しました。

俺は天才的な設計者なのでは?」という間違った認識が進んだ瞬間。​

Mobility-Development1.jpg

​2012

その後、M01はK4GPに参戦しました。

もともと耐久用に設計したマシンではなかったし、当時のフヂエンのエンジニアリングレベルでは車体格部の耐久性評価するノウハウも無く、行き当たりばったりで「壊れたらなんとかして直す」という根性論でした。

それが有って、道具や部品が満足に無い環境でもモノづくりを完結させる、というフヂエンの方法論になっているように思います。

IMG_0919.jpg

セパン24時間も参戦しました。

トラブルもあって、かなり長時間ピットに入っていたのですが、いちおうゴール!

画像 015.jpg
2015keita.jpg

​2015

レース活動と平行して進めていた、M02Tプロジェクトが完成したのも2015年でした。M02Tは、ロータスのエリーゼ フェイズ3をベースとして製作したオリジナルデザインのクルマです。​「ネオクラシカル」をテーマにデザインしました。ホイールベースとトレッドをいじらずに、どのようにして見た人の印象を変えるか?という学びになりました。​上手く出来たのか?今も自信はありませんが、オーナー様がずっと乗って頂けているのが嬉しいです。ロータスはこういうカスタムができる構造なので、またいつか取り組んでみたい素材です。

Mobility-Development6.jpg

​2016

マツダ ルーチェ ロータリー。

入庫した際には錆だらけだったこのクルマ、3年近い製作期間を経てほぼ新車の輝きを取り戻しました。この車両は、完全復元された個体は希少性高かったそうで、ミニカーにもなりました。

IMG_9572.jpg

​2018

電動キックボード開発が始まったのが2018年でした。もともと社員のひとりが通勤用にDIYで製作した電動スケボーも面白さにハマってしまい「公道走れる電動キックボードを作ってみようよ!」と開発がスタートしました。​下の写真は、第一回目の試作車両です。この時は、フロントは8インチホイールで走行安定性悪かったし、ハンドルポストも丸いカーボンパイプで剛性不足状態でした。普通のキックボードを作ったことないのに、それとは全く違うサスペンション方式を考案してしまう、そういう姿勢が人生が大変になる原因なのだと思います。

Capture.JPG

​2019

1年近い開発期間を経てSunameriを発売しました。

フルカーボンボディでハイパフォーマンスな電動キックボードは、当時まだ日本国内は「電動キックボードって何ですか?」という雰囲気でしたから、ちょっと先走り気味のプロダクトではありましたが、なかなかのスマッシュヒットとなりました。

SunameriTopPic2.jpg

​2020

Sunameriの弟分のXiaomeriを発売しました。

中国の深センの協力会社で生産されたこの電動キックボード、いよいよ生産というタイミングになって、例のCOVID-19が発生して中国がロックダウンして、スケジュールが遅れに遅れ、その影響を大きく受けました。

このプロジェクトを通じて、中国の沿岸部のモノづくりの真実と実力を測る事ができました。
絶対に勝てない部分と、絶対に負けない部分、両方あります。

Xiaomeri写真2.jpg

​2022

1年余の開発期間を経てPUFFINを発売しました。PUFFINは、Sunameriは楽しいけど難しい、という声が多かったので、「もっと乗り易いモデルを作ろう」というコンセプトから生まれました。Sunameriと同じ3輪でありながら、サスペンションは全くの新設計で、乗り易くて快適な乗り味を実現しています。

メイン画像.jpg
bottom of page